北大阪急行の誕生 – 大阪万博の大量輸送を支えた鉄道の物語

 

はじめに

昭和45年、忘れることのできない巨大イベントが開催された。「人類の進歩と調和」をテーマに掲げた日本万国博覧会(大阪万博)である。半年間の開催期間中、日本の人口およそ60%にあたる6400万人以上の観客が詰めかけた。

会場の千里丘陵は大阪市内からアクセスが不便な場所であった。地元の関西圏のみならず、新幹線などを使い、全国からやってくる大量の入場者を会場まで輸送する新しい鉄道が必要であった。そこで誕生したのが、北大阪急行である。

一日10万人以上の乗客を無事に会場に送り届けなければならない。誕生したばかりの新しい鉄道会社にとって、スタート直後から正念場を迎える時代であった。

千里ニュータウンの建設

昭和30年代、大阪市の北に位置する千里丘陵では、ニュータウンの建設が行われていた。高度経済成長期を迎え、大阪市のベッドタウンとして開発されることになる千里ニュータウンは、およそ15万人が暮らす日本最大規模の住宅団地となる予定であった。

ニュータウン建設による人口の増加に対応するため、交通機関の整備も急務となっていた。阪急は昭和38年に新千里山へ現在の南千里駅を開設し、増加する乗客に対応したが、昭和40年には混雑率250%を超える区間が出るなど、早くも限界を迎えようとしていた。

一方、大阪市営地下鉄は、東海道新幹線開通に合わせ、新大阪駅までの路線延長を行っていたが、それより北へ延びる千里までの延伸は進展していなかった。鉄道の整備が進んでいなかった昭和40年、日本初の万国博覧会が戦後復興の象徴として昭和45年に千里丘陵で開催されることが決定した。

万博輸送計画の策定

場所は千里丘陵で、大阪万博の会場に大量の観客を輸送する交通機関の整備が急務の状況になった。日本万国博覧会協会職員が入場者の予測を立てた。

「どれくらいの観客がやってくるのか」「総入場者数は3000万人、休日はおよそ42万人の入場者が予想されます。しかも、休日の42万人の入場者をおよそ6割にあたる26万人が鉄道利用者という予想です。さらにそのうちの12万人は、大阪市営地下鉄御堂筋線から会場に直結する新しく建設される鉄道の利用者と考えられていました」

建設費が200億円、万博終了後の採算は取れるのか。鉄道の建設は不可能だとする声もあった。しかし、バス輸送だけでは渋滞が発生し、万博輸送がパンクする。国鉄や大阪市交通局などの関係者からは、巨額な建設費の問題や、万博終了後の輸送需要、採算性を危惧する声が大きく、鉄道建設の計画は進まなかった。

第3セクター方式による鉄道建設

しかし、万博成功のためには鉄道建設が必要だと考えた万国博覧会協会は最終的に政府に働きかけ、その結果、新しい鉄道会社を設立し、建設を行うことになった。江坂まで大阪市営地下鉄御堂筋線を延伸し、江坂から北の万博会場までは大阪府と阪急の出資による第3セクターの鉄道会社によって建設することが昭和42年に決定した。

この路線は地下鉄御堂筋線との相互乗り入れを行う。新会社の名前は北大阪急行電鉄に決定した。ようやく万博輸送を解決するために、北大阪急行は社長をはじめ、阪急電鉄からの出向社員が中心となってスタートした。

路線建設の課題

建設するのは、万博終了後も営業を行う江坂から千里中央までの南北線のおよそ6キロ、そして、期間中だけ使用する千里中央から会場までの会場線およそ4キロである。南北線は新御堂筋と呼ばれている国道423号の中央分離帯部分に建設されることに決まった。

しかし、名神高速と交差する地点では、鉄道が高速道路をまたがなければならない。「鉄橋の負荷を高速道路にかけないでほしい。高速道路の通行制限は困る」。道路公団との話し合いにより、橋げたを高速道路上にかからないようにした。別の場所で組み立てた橋梁を仮設の移動用レールで少しずつ引き出して、道路の上をまたぐ工法で架設を行うことにした。

一方、会場線は現在の千里中央駅のおよそ500m以内のトンネル内で分岐し、万博中央口に至るルートであった。しかし、それにより、終点の千里中央駅に電車の乗り入れが困難になる。万博期間中は会場線に仮駅を設置し、万博終了後は本来の千里中央駅を開設する計画にした。

前代未聞の提案

問題は、地上駅の用地であった。万博会場の正面入口に駅を造る予定であったが、駅の前には、注目の中国縦貫自動車道が走っていた。半年間の鉄道のために道路の向こうの土地を買う余裕はない。「道路の一部を貸してもらうことはできないか」。それは、前代未聞の提案だった。

できたばかりの鉄道会社の経営的な負担を減らし、万博の輸送を成功させるために、なんと中国縦貫自動車道の一部を借用して建設しようというのである。粘り強い交渉の末、会期終了後、速やかに撤去するという約束のもと、中国縦貫自動車道の上り路線の一部を借用することが認められた。

入場者予測の変更と対応

万博開催を翌年に控えた昭和44年の総理府世論調査では、入場者の予想は5000万人、鉄道利用者は1日およそ38万人と大幅に増加した。多くの乗客を迎える万国博中央口駅は、仮設ながら大規模な駅舎を建設した。コンコースはおよそ2000平方メートル、32ヶ所の改札口と50台の自動券売機を設けた。ホームからは4基のエスカレーターと階段でメインゲートデッキへ誘導し、デッキを通じて、太陽の塔がそびえる会場へ行くことができた。

工事の予算総額は、121億5900万円。万博のためだけの会場線だけでも34億1300万円という巨額な建設費がかかった。

車両の製造

新しい車両の製造も進められ、地下鉄御堂筋線との相互乗り入れ直通運転が前提だったため、大阪市営地下鉄と車両規格を統一した。1編成8両が基本で、ステンレス製の2000型は万博に向けて、検査予備用の車両を合わせて6編成分44両が製造された。2000型と同じくステンレス製の7000型は40両が製造され、さらに8000型はアルミ製の車体で16両が製造された。

北大阪急行の誕生を飾るこれらの車両は、大阪市営地下鉄と乗客の利便性を考え、扉や非常スイッチなどの位置や操作方法を統一しており、さらに乗務員が操作する運転性能に関係する機器なども統一されていた。万博終了後は、必要以上の車両を所有することになるため、一部の車両は大阪市に譲渡する計画があった。

社員の育成

車両や設備とともに重要だったのが社員の確保であった。当時は万博景気のため社会全般が人手不足であり、社員の確保に苦労していた。昭和44年4月1日、第1期生18名が入社し、12名の運転手と31名の車掌は、阪急の施設や路線を使用して知識や技術を習得した。

さらに、陸上自衛隊への体験入隊で社員の団結や士気を高めた。万博会期中の需要に対処するため、阪急から運転手9名が出向し、新入社員とともに、開業に向け準備を進めていった。

北大阪急行の1期生として入社した林恒雄は当時の様子を次のように語っている。「入社後は阪急電鉄運輸部教習所に通いました。教習所は高校の校舎をそのまま利用していて、高校生活の延長のようでした。阪急神戸線で車掌の実務見習い、それから試運転列車で習熟訓練。日を重ねるごとに、車掌としての自覚が出てきたようです」。

開業と万博開幕

昭和45年2月24日、北大阪急行が開業した。しかし、無事開業した安堵感よりも、19日後に控えた万博開幕への緊張感が漂っていたという。

昭和45年3月14日、「人類の進歩と調和」をテーマにしたアジアで初めての万国博覧会の開会式が行われ、翌15日より開幕した。開幕してすぐに大勢の待ちに待った観客が詰めかけた。北大阪急行の万国博中央口駅まで新大阪駅からはわずか17分、なんば駅からでも33分で行くことができた。新幹線利用者はもちろん、大阪市内からの観客にとって最も利便性の良い鉄道であった。

万博期間中の輸送

当時車掌として連日勤務にあたった藤田輝之は、そのときの様子を次のように語っている。「万博期間中は車掌をやっておりました。万博期間中の車掌の車内アナウンスは、海外からのお客様も多くご乗車されるということで、簡単な英語の案内を行っており、評判が良かったのかも想像におまかせします」。

海外からの乗客のために、車掌は短期間で英会話を習得した。拙い英語ながら外国人観光客からの評判は良かったという。文字表示板も英語版を設置するなどの対応を行った。開幕してから2週間、連日20万人から40万人が大挙して押し寄せ、北大阪急行も予想以上の混雑であった。万博中央口駅は電車到着のたびに人であふれかえった。

万博の入場者数は、6月23日に延べ3000万人を超え、8月19日には早くも5000万人を突破した。社員たちは連日連夜、各輸送に予想以上の混雑に対応するため、学生を中心におよそ350人のアルバイトを雇うほどであった。多くの部署でアルバイトが活躍した。

混雑の極み

車掌を務めていた林恒雄は当時の混雑ぶりを忘れられないという。「万博期間中は連日ラッシュ並みの混雑となり、万国博中央口駅はお客様で溢れんばかり。前の列車から降りられたお客様が改札口を出て行かれず、まだホームに滞留しているにも関わらず、次の列車が到着してくるという状態で、車掌勤務終了後にホーム案内を行うこともありました」。

9月の閉幕が近づくにつれ、交通機関はパンク寸前で混雑を極めたのは、北大阪急行だけではなかった。鉄道史研究家三宅俊彦氏は万博輸送の状況についてこう語る。「学生が多くなったその夜の方へ来るようになったんですね。ところがその延長したら今度はそれで宿が必要なわけです。要するに、宿泊施設、そういうホテルとか旅館も十分でないし、ということもしただろうし、時刻表に載ってないもので運行することもあったのではないかなと思う」。

全国規模の輸送対策

国鉄では、それまで12両編成だった東海道新幹線のひかりを現在の形である16両編成にして対応したが、それだけでも足らず、新幹線や在来線で臨時列車を増発した。騒音問題で夜間運行ができなかった新幹線でも、特別にひかり328号を運行した。新大阪21時10分発東京0時20分着という芸能ダイヤであった。

大阪発22時58分で東海道本線を走り、朝の6時53分に三島に到着するEXPOこだまも運行した。三島駅では12分で新幹線に乗り継ぎ、8時10分に東京駅に到着するという強行スケジュールだったが、定員1040名は常に満席だった。全国からかき集めて組まれた12両1編成のEXPO児玉は、三島駅で折り返して家路につく人々の輸送を行う大車輪の活躍をした。

閉幕間際の大混雑

9月に入ると、閉幕の駆け込み観客が殺到した。9月5日、入場者は83万人を突破し、会期中の1日での最高記録である。その日23時36分、最終電車が発車したとき、プラットフォームや駅周辺には乗車できなかった観客が中継に、さらに会場内には、会場内でこの人たちが続出した。北大阪急行では深夜1時20分に臨時列車を運転したが、大阪市内に戻っても、交通の便がないため徹夜する人も多かったという。

車掌をしていた林恒雄は、その日をこう回想する。「最終電車が出た後でも、お客様が改札口にあふれているほどでした。もう帰宅することができず、会社のマイクロバスに送迎され、独身寮内にあった仮泊所に泊まることになりました。しかし、もう今となっては、思い出です」。

連日数十万人の観客が詰めかけたが、鉄道輸送では乗客を巻き込むような大きな事故は起こらなかった。

万博の成功と閉幕

9月13日、大阪万博が閉幕した。総入場者数は当初予想された3000万人を大きく上回る6400万人以上となった。北大阪急行は、4100万人以上の乗客を輸送し、万博輸送の主要路線としての期待に見事に応えたのである。

しかし、余韻に浸るまもなく、閉幕の翌日から会場線の撤去が始まった。12月15日までに同施設を撤去することが条件だった。万博のために製造された車両は100両だったが、通常の営業ではその半分以下の車両で十分な北大阪急行に残されたのは2000型の44両だけであった。

7000型40両と8000型16両は大阪市に譲渡され、大阪市地下鉄で万博でフル稼働した2000形は、その後も千里と大阪市内を結ぶ通勤電車として、23年間活躍をした。昭和61年の8000型ポールスターのデビューを受けて、順次廃車となり、平成5年にラストランを迎えた。

万博後の北大阪急行

北大阪急行は、万博終了後の反動で一時的に減収になったものの、沿線の開発なども進み、現在では大阪府民にとって欠かせない鉄道としてその存在を確立している。大阪万博の大量輸送の裏には、入社1年目の鉄道マンたちの奮闘の姿があった。それは日本の鉄道輸送の歴史の中でも特筆すべき業績であり、鉄道と人によって生み出された輝かしい記録である。

 

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