富山ライトレール:地方交通の復活と公共交通機関の新たな可能性

 

はじめに

富山市には、JR富山駅を挟んで南北に二つの路面電車が走っている。北側を走るのが主流のライトレール方式の日本初の本格的導入成功事例として知られているものである。その前身は、廃線が懸念されるJRの地方路線であった。しかし、市や地元住民の協力もあり、LRTとして再生し、乗客数も増加して見事に復活を果たした。この富山ライトレールの成功は、日本の公共交通機関のあり方に一石を投じただけでなく、地方のまちづくりに一つの答えを示したのである。

ライトレール(LRT)とは

ライトレールは1970年代にアメリカで提唱された都市型小型車両で、近距離輸送を行うため路線の大部分を専用軌道とし、部分的に道路上を走行することで、都市高速鉄道の定時性と路面電車の利便性という両方の長所をうまく取り入れた中量交通機関である。

日本では、モータリゼーションの発展とともに自家用車利用が進み、市街地が郊外へ拡大した結果、地方都市では公共交通の利用者が減少し、大きな問題となっていた。しかし、住民の高齢化や中心市街地の空洞化などに対応するため、公共交通と徒歩で移動可能なコンパクトなまちづくりが全国の地方都市で求められるようになった。そして今、それにふさわしい交通機関として、欧米の各都市で導入されているLRTが日本でも注目を集めている。そのLRTの日本で初めての本格的導入事例が富山ライトレールなのである。

富山港線の歴史

しかし、富山ライトレールは何もないところにゼロから生み出された路線ではない。富山ライトレールが生まれた背景には、いくつもの奇跡のような偶然や努力があった。現在の富山ライトレールの路線は大正13年に富岩鉄道として開業した。その後、富山地方鉄道富岩線などを経て、昭和18年に国有化され、国鉄富山港線となった。

沿線は、江戸時代から北前船の寄港地として栄え、明治時代になると港の周辺に工場や倉庫が進出し、通勤客が利用した。大正時代には、後に富山大学となる旧制富山高校、さらに薬学専門学校も沿線に作られたことで、通学客も大きく増えた。昭和になると工場がさらに増えて、利用者も増加し、戦中から戦後は20分間隔で運行されたが、電車は常に満員であった。

利用者減少と廃線の危機

しかしその後、富山大学が移転し、昭和40年代には工場が次々に郊外へ移転した。追い打ちをかけるように、モータリゼーション化も進み、利用者が年々減少していった。直流電化の富山港線は、交流電化の北陸本線とでは車両の共有が難しく、旧型国電と呼ばれる、かつて都市部で活躍した国鉄の旧型電車が走ることから、鉄道ファンの人気は高かったが、利用客の増加にはつながらなかった。

その後、利用客減少によるコスト削減が求められ、交直流電車3両編成から昼間はディーゼルカー1両での運行となり、列車本数も減って、利便性が大きく低下した。ますます乗客が減るという悪循環で、富山港線は廃止になってもおかしくない状況に追い込まれていた。

転機の到来

平成13年、そんな富山港線に大きな転機が訪れた。北陸新幹線の富山までの延伸が決定したのである。これは富山市民に新しく生まれ変わる期待を抱かせた。そして、かねてから懸案だった富山駅周辺の立体交差化も検討され始めた。この計画は港線にとっては逆風で、新幹線整備で富山駅が高架になれば、富山港線も高架にしないと乗り入れができず、利便性はさらに低下する恐れがあった。

だが、富山港線の高架化工事の費用は当時までの経緯を考えれば莫大で、この時点で廃止の結論を下されても不思議ではなく、風前の灯火だったJR富山港線。その再利用を訴えたのは、富山市の森雅史市長だった。

森市長のビジョン

平成14年に市長となった森氏は、自らの提唱するコンパクトシティ構想を実現するため、富山港線を生まれ変わらせようと考えた。「どうやったらこの人口減少時代に一定程度活力あるまちをつくるということを考えて、結論は拡散型のまちづくりをやめて、都市を集約していこうと、コンパクトなまちづくりをしよう。その仕掛けとして大事なツールは、鉄軌道だと。だから鉄軌道を大事にしようと。これをバスで代替するとやっぱり渋滞に巻き込まれたりして速達性が低くなります。それでは人はマイカーからシフトしない」。

市街地が平坦に大きく広がる富山市は自家用車保有率が高く、何事にも自動車での移動が前提だった。しかし、市民の高齢化が進む近い将来、自動車で移動できない交通弱者が増加することは明らかで、森市長はそうなる前に手を打たねばならないと考えていた。そのためには、公共交通、特に定時性の高い鉄道を整備する必要がある。森市長はかねてからそのための新しい公共交通として、欧米で主流となっていたLRTに着目していた。

LRT導入の意義

「それやっぱりヨーロッパでどんどん増えていてLRTを導入って人が公共交通にもう一度回帰していく。車一辺倒の暮らしから公共交通を使うっていう社会に、両方使うという社会にシフトさせるわけですが、そのための仕掛けとしては、単純に今までと同じような路面電車を作るよりも、おしゃれ感ってのはすごく大事で、デザインとか、そういうことを考えると提案の価値がある」。

森市長はヨーロッパのような最新式のLRTを採用して、赤字が続き、廃止寸前の富山港線も住民が乗りたくなる新しい公共交通として生まれ変わらせようと考えたのである。従来からある富山港線の専用軌道部分を利用することで、路面電車以上の速度と定時性を確保する。

技術的な構想

提案では、富山駅への乗り入れは、新たな軌道部分を道路に設置して、路面電車として取り入れれば、高架にするよりもコストを抑えられる。さらに将来的には既存の路面電車である富山駅南側の富山地方鉄道線に乗り入れ、南北を繋げれば、利便性はさらに向上する。

鉄道の速度と定時性、路面電車の利便性の二つを併せ持つ路線を実現するのが欧米のLRTでも使われている100%低床車両を導入し、バリアフリー化すれば、高齢化した地元住民も利用しやすい公共交通を軸としたコンパクトなまちづくりが可能となる。

奇跡的なタイミング

森市長の方針を具現化するために、富山港線の再整備問題は、これ以上ない好機だった。公共交通機関の再生利用を掲げる新市長、利用客の減少に歯止めがかからない地方路線の廃止問題、北陸新幹線延伸と立体交差事業という大事業を、都市再生の追い風に変えるという、まさに奇跡的なタイミングであった。

森市長は平成15年5月に富山港線の路面電車化の方針を発表した。その後、設置された委員会は議論を重ね、翌平成16年2月に路面電車がふさわしいという結論を出した。これを受けて、市は直ちに動き出した。

市民への説明と理解

毎週末、富山港線沿線だけでなく、市内全域に自ら足を運び説明会を開催し、公共交通の整備の必要性とそのための富山港線のLRT化を説明し、理解を求めた。税金として集めた公費を投入するには、市民の理解が不可欠だからである。

森市長の熱心な活動もあり、大きな反対運動は結局一つもなかった。というよりも、むしろ住民たちは新しい富山港線に期待していた。旧態依然の鉄道から近代的なLRTに生まれ変わることで、大きく変わるのではないかと熱い期待を寄せていたのである。

沿線の自治振興会が中心となって「富山港線を育てる会」が設立されるなど、行政任せではなく、住民自らが新しい路面電車を育てようという意識も非常に高かった。こうして平成16年4月、第3セクター方式の新会社富山ライトレール株式会社が設立された。

工事の開始

森市長の思い描いた理想の公共交通へ大きく一歩を踏み出した瞬間である。レールは、旧富山港線区間と路面電車区間の両方の区間を併せ持つため、鉄道事業法と軌道法の二つの法律に基づいて、事業許可や工事施工を申請した。平成17年2月に工事施行認可を得て、すぐに工事が始まった。

鉄道部分の線路はJR時代の線路やホームをそのまま受け継いだが、架線電圧は600ボルトに降圧し、変電施設を1ヶ所増設した。地元住民から走行時の騒音や振動を少なくしてほしいという要望が高かったため、樹脂固定軌道を軌道区間全線に導入することを決定した。

樹脂固定軌道とはコンクリートの板の溝部分にレールを敷設し、レールとコンクリート板を樹脂で一体化する方法で、走行時の振動や騒音を軽減し、さらに磨耗も少ないというメリットがある。

富山駅前の軌道区間は軌道の緑化を実施し、環境に優しいというイメージを与えるだけでなく、騒音低減にも一役買っている。区間の工事が進められる中、平成18年2月28日、JR富山港線が最後の営業運転を行い、およそ80年の歴史に幕を閉じた。

このラストランには鉄道ファンや地元住民が多く集まり、名残を惜しんだ。その翌日から既存の鉄道区間の工事が急ピッチで進められた。ライトレール開業までの1ヶ月の間で工事、試験、検査、さらには運転士の習熟運転などのスケジュールが詰まっており、昼夜を分かたず、休日も作業が続けられた。

トータルデザインの重要性

ライトレールを語る上で欠かせない要素がデザインである。東京のGKデザイングループと地元の島津環境グラフィックスによるトータルデザインチームが、車両のデザインから駅や停留所、広告や広報の計画まで含めてあらゆるデザインをトータルに考えてライトレールをコーディネートした。

これは単に車両や駅をデザインするだけではなく、まちづくりと連携して、新しい生活や風景を創造し、世界に向けて富山市民が誇れるような路線にしようという試みであった。

「人々を動かす要素っていうのは、楽しいか美味しいかおしゃれだと思って。大成功を引き受けてJRから全面的にブラッシュアップするわけ。トータルデザインって優れたデザイン感覚とかおしゃれさ、そういうものがないといけないと。ですから、実験設計っていう企業と富山のデザイナーと組んで、富山らしい富山の人が好みそうな、そういうトータルで作ってもらって非常に良かったと思ってます」。

日本の多くの路面電車に見られるような車両広告は一切なく、車内の中吊り広告もない。これもトータルデザインの観点から、美観を損ねないように配慮したものである。一方、広告収入がないことを補う意味もあり、多くの民間企業や市民から様々な支援を得ている。

例えば、駅や停留所のベンチは市民や企業からの寄付金で作られており、それぞれのベンチには設置者の名前とメッセージを入れた記念プレートが付けられている。駅の大きな広告パネルは、企業の広告ではなく、地元の特色を生かしたパネルを制作し、企業がそのスペースを会議室として会社名を小さく入れるスポンサーとして使用している。こうした様々な人たちの熱い思いを乗せて、ついにライトレールのデビューの日がやってきた。

開業

平成18年4月29日、富山ライトレールがついに開業を迎えた。ライトレールは岩瀬浜から奥田中学校前までのJR富山港線から引き継いだ既存の鉄道区間6.5キロと、奥田中学校前から富山駅北までの新設の軌道区間1.1キロを併せ持ち、名実ともにライトレールという呼び名がふさわしい路線を競った。

この新しい路線には100%低床車両である新型車両DLR0600型7編成が投入された。100%低床車両は平成9年に熊本で初めて導入され、定着していた。富山での導入も、環境に優しい鉄軌道を望む沿線住民の要望に配慮したもので、停留所や駅も階段ではなく、スロープを用いるなど、施設の面でもバリアフリーに配慮している。

車両の製作は熊本と同じ新潟トランシスが担当した。車体は連接構造で、定員は80名。車両内の床はレールから300ミリから360ミリで、停留所や駅からの乗降でも段差を意識することはほとんどない。立山の雪をイメージした白を基調に、富山の自然をモチーフにした7色で彩られたこの新車両には、ポートラムという愛称が付けられた。

開業の前日には、発車式が行われ、関係者を乗せた祝賀電車が運行され、そして開業当日、新しい電車に早く乗ってみたいという人々で朝から長蛇の列となった。朝5時57分の一番電車は、多くの乗客を乗せて順調に運行を開始した。この日は、終点の岩瀬浜駅など沿線各地で開業を祝う多くのイベントが開催され、富山ライトレールの開業を地元住民にとっても記念すべき富山ライトレールの開業だった。

利用促進の取り組み

ライトレールでは、乗客を誘致するためのアイディアを実行した。まず地元住民に日常的に利用してもらうためには、利便性の確保が最優先である。平日の昼間でも15分間隔とし、さらに終電の時間も繰り下げるなど、JR富山港線時代に比べて大幅に便数を増やした。

それに加えて、蓮町と岩瀬浜からはフィーダーバスと呼ばれる路線バスを運行し、ライトレールのダイヤとバスの運行スケジュールを連動させて、浜駅では同じホームで乗り換えができるようにするなど、乗客の利便性をさらに向上させた。

市内の各ホテルで、外国人の宿泊客には無料乗車券、日本人の宿泊客には半額券を配布して、観光需要も取り込んでいった。さらに、市内の花屋と協力して、花束を買った人に無料乗車券を発行し、花束を持って乗車してもらう人を増やすなど、ユニークなアイディアも実施した。

成果

その甲斐あって、利用客は富山港線時代の2.5倍の年間160万人に増加し、そのうちの1割は自動車からの乗り換えであることが確認された。また、さらに日中は高齢者の利用が増えたこともわかった。日頃は出歩かなかった高齢者の外出を促した点でも、富山ライトレールは沿線住民のライフスタイルの改善点にまで影響を及ぼしたと言える。

平成19年、富山ライトレールの0S600型電車は、鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞した。路面電車としては初となる受賞である。この受賞は車両そのものへの評価というよりも、不振にあえいでいた鉄道という枠組みだけでなく、社会のあり方にまで影響を与えた取り組みに対しての受賞だった。

まとめ

廃止寸前のローカル線から日本で最先端の交通機関として生まれ変わった富山ライトレール。その誕生の背景には、地元住民たちの愛情、そして森市長の海のような情熱があった。富山ライトレールの一連の取り組みは、単に地方の公共交通の成功例ということにとどまらず、地方都市のまちづくりのあり方に一つの回答を示した事例とも言える。

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